追想 2011 あの日あの刻
10年前のこの日、メディアから流れてくる映像はどれも信じがたいものばかりでした。
私は事務所でデスクワークをしておりましたところ誰かが
「東北ですごい地震が!!」と声をあげたのでスグにパソコンでニュース速報を見ました。
あまりの衝撃に言葉が出てこなかったことを思い出します。
(仙台空港で無数の車が濁流に押し流されていく映像が最初CGか現実なのか見分けがつきませんでした)
私が思い起こすのはその年の9月に福島県からタクシー乗務員として来られた1人の男性の事です。
Aさん(40代前半)は被災され、新たな生活拠点として京都に家族ごと引っ越してこられました。
まだ小学生二人と幼稚園児くらいのお子さんがおられたと記憶しています。
福島でのタクシー経験はなく、まったく土地勘のない京都で文字通りゼロからのスタートです。
相当な覚悟をもって来られたことは想像に難くないところです。
一方、周りはというと不安しか口にしません。
「福島から来て、未経験者ってホンマやっていけんのかなぁ。厳しいんちゃうかなぁ。」と。
しかしそんな心配をよそに彼の覚悟が本物であることを彼自身が証明していくことになります。
Aさんは驚異的な速さで京都市内の地理をマスターしていったのです。
これをしない限りこの先はないんだとばかりに。
「まるたけえびすにおしおいけ-」(※)は1日で、難しいとされるエリア(伏見・桂・西陣等)の道もほんの数日で覚えてきました。
ほか交差点、公共施設、商業施設、大企業、ホテル、病院、駅、橋、寺社、旧所名跡、有名飲食店なども然り。
ここまではやろうと思えば机上でできることですから別に驚いたりはしません。
(買いたての地図はすぐボロボロになってましたが)
ここからがAさんの本領です。
聞けば休日に「自転車」で走りまわったということです。住まいはなんと亀岡。
京都市内に出るだけでも大変な労力です。たぶん往復で40㎞以上は走ったのだろうと思います。
これを重ねること数回。。。(当時もカーナビはありましたがそれに頼り切る考えはなかったとのこと)
いくら仕事の為とはいえとても真似できることではありません。
(※丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池…の東西の通りを北から順番に言っていく古くから伝えられてきた数え歌。 気のない方は半年かかっても覚えません)
Aさんは真面目そのもので喜怒哀楽が顔に出るタイプではありません。
しかしどこか「鬼気迫る」ものが滲み出ていたように思います。
彼を見る周りの目は当然変わっていきました。
東北の人は「朴訥で忍耐力があり粘り強い」等と評されますが、Aさんはまさしくその典型像でした。
その後は平均以上の水揚げで生活を軌道にのせ、数年後鮮魚を扱う仕事(本職)を京都市内のどこかでされていると聞いています。
個人的には続けてほしかったのですが本職に戻ることが念願だったらしく、そういう意味では良かったと思っています。
今はそれから8年近く経っているので近況こそわかりませんがきっとどこかで奮闘されているに違いありません。
おそらく彼にはいかなる境遇においても乗り越えていけるだけの人間力が備わっていると今でもそう思っています。
十年ひと昔。
しかし何年たとうが被災された皆さんにとっては消えることのない悲しみや苦しみがあろうかと思います。
いまだ復興には程遠い景色や仮設住宅での暮らしがテレビに映ると胸が絞めつけられる思いです。
ここにきて最近また福島沖で大きな地震が続いています。
自然の事とはいえ、どうかおさまるよう心から祈るばかりです。
そして東北に穏やかな春が訪れ、皆さんが笑顔に包まれんことを願わずにはおれません。
今年もまたAさんの少しはにかんだ笑顔を思い出す時期がやってきました。
彼とはいつかどこかでまた巡り会えそうな、そんな気がします。
掛見